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スペイン もしくは 雑記

スペインに12月20日から1月7日までいた。

色々な場所に行き、色々見て、色々味わい、色々楽しみ、色々な感傷にひたった。

今は色々なことを短期間に詰め込んで、お腹一杯といった感じで、何もする気が起こらない。

この短期間と言うのはドイツにいる時間も含まれているのかもしれない。

なんだか、もうお腹一杯である。

今さっき、ひらひらの誕生日会で生地から作り上げられた、奇跡的なギョウザを頂いたからかもしれない。

おいしかった、もうお腹一杯。

ごちそうさま


人は幸せの中にいると、幸せに気づかず、不幸である、まだ足りないと嘆く。

そんな絵画をスペインではちらほら見かけた。天国俗世地獄。宗教についての絵画。エル・グレコ

人はむしろ不幸のどん底にあり、小さな幸せを生きがいに暮らしていくほうが、幸せを強く感じられるのかもしれない。

今のこの恵まれた生活もいつかは終わりを迎える。その日が来るまできっと自分はその本当の意味に気づくことが出来ない。


スペインでは一人の時間を多く過ごし、色々なことを考えては忘れ、もしくは何も考えなかった。

ただひたすらと町を歩き、時々綺麗なものに出会うと息を呑む。ただ、時に綺麗な筈のものにであっても、感動しない。そんな気分のときもあった。天気がいいと心は晴れやかに、天気が悪いと心も濁る。

そんなシンプルな反射材のような人間で過ごしていた。

旅が始まったばかりのときは、写真をいっぱい撮った。だんだん、撮る回数が減っていった。
最後の都市、マドリードでは一枚しか撮らなかった。途中で、写真を撮る意味が分からなくなった。
写真を撮ってどうするのか、誰かに伝えたいのか、誰かの為に撮っているのか、自分の為に撮っているのか、記憶に残したいのか、果たして写真をとって記憶に残るのか、そして、自分は撮った写真を何度も見るのか、

何のために念のために、and so on。

「綺麗なものを自分のものとして残して置きたい、その気持ちは自然なものじゃないかな?」
「なかなか、綺麗に撮れないんだよ。だから嫌なんだ。」

それは単純にもテクニックの問題だったのかもしれない。



バルセロナではガウディを沢山見た。ただ、バルセロナ滞在中クリスマスの日以外は全部雨だった。雨の振る中、びしょ濡れになりながら町を歩き、時にカメラを構え、また歩く。

すぐ雨は止むだろうと思っていた、でも、全く止まなかった。

神に対して、怒りを覚えた。なぜ、太陽で照らしてくれない、そうすればこのくすんだ世界も、色に溢れた美しい世界に変わるのに。でも、すぐに無駄なことに気づいて、また歩いた。

そして、歩くことをあきらめ、地下鉄を使うようになった。

色々なものが暗闇の中を蛍光灯の光を頼りに蠢いていた



また、バルセロナではクレジットカードをなくした。

盗まれたわけではなく、お店で忘れた。

カウンターの女性がクレジットカードを渡すのを忘れ、自分がクレジットカードを受け取るのを忘れた。

お互いに頭のネジを2本程、どこかに落としてしまったのだろう。

女性は耳につけていたピアスが自然に耳から離れ、そのまま雑踏の中に消えていくように

自分は石に躓いて転び、強く頭を打ち付けたその度に




タラゴナでは太陽に感動した。鬱屈した気持ちをすべて掻き消すような、すばらしい太陽だった。

太陽は海を照らし町中を明るく彩った。鳥達はは小さな声でお互いに囁きながらビルの隙間を飛び交い、花は雨に濡れて沈んだ首を太陽に向かって再び擡げる。雨に濡れた地面は日差しを反射してまぶしく、まるで照れてしまった時の様につい目をそらしてしまうけれど、そんな光が本当に心に染みる。

神のことは信じないけれど、その時は神様に感謝した。 都合のいいものである。


タラゴナでは世界で二番目に長いローマ時代の水道橋も見たが、それにはあまり感動することが出来なかった。

感動するためには感動的な演出が必要なのかもしれない。

「サプライズ」 「サプライズ」 「いやだな~、これじゃあムードがない」       

やれやれ めんどくさい奴だ


想像力豊かな人は、当時の人々の暮らしぶりなどに思いを馳せて、感傷に浸ることが出来るのかもしれない。

ただ、自分は目の前にあるものをただ眺め、綺麗かどうかで、浅はかにも刹那的に判断してしまうようだ。

そんな自分も、昔は色々と想像することを試みたことがある。そうすることが、正しいことだと思っていた。ただ、いざやろうとすると、登場人物の名前が出てこない。

「そんなのは誰でもいいだろう」  「いやいや名前がないと、あれだリアリティーに欠けるだろう?」
「当時の人々の服装は?髪型は? どんなこと考えて暮らしていて、どんな毎日過ごしてたのかな?えーと」
「でも、結局のところ、その時代に生きてたわけじゃないし、本当のことは何もわからないよね」
「真実かどうかわからないものについて、考える意味ってあるのかな?」
「う~ん、まあ、考えて悪いことでもないけど、特に必要も無いんじゃない?」

いやいや、君達、教養が足りないんです。勉強が足りないから、見かけだけで価値を判断してしまうんです。

「あぁ、そういうことか」


タラゴナではこんなこともあった。

水道橋に行く途中に出会った、日本人カップルの女性は言った。

「500mlのペットボトルはペットのように可愛いサイズだから、ペットボトルって言うんだよね」と

1分間の幸せを、ありがとうございました。空は曇っていたけれど、心は晴れた。


素敵な笑顔を見ると心も晴れる。悲しげな顔を見ると、心も沈む。

そんなこともあるけど、そんなこともないか



バレンシアではノラットの家に泊めさせてもらった。

家族の団欒の中に混じって、座って食事を摂るだけで安らぎを得ることが出来た。

お母さんが作ったサラダ、お父さんが育てたオレンジ、お父さんがしとめた小鳥、葉っぱの上をのそのそと歩いているカタツムリ

すべてはノラットのお父さんが自分で作った大きなお家の中に、ひとまとまりになって優しく漂っていた。


これが、家族が創りだす幸せの世界なのかな


ノラットのお父さんもお母さんも英語は喋れないけれど、気遣いは言葉が無くても伝わってくる。

優しい瞳に、優しい口調、穏やかな笑顔と穏やかなしぐさ

別れの日には、道中お腹が空いても大丈夫なようにと、手作りのサンドイッチに自家製のオレンジやみかん、ハムを手渡してくれた。

そんなに、食べれないよと言うけれど、「もっと食べなきゃ、そんなに痩せてるんだし、ほらほらもっともっと」

なんだか、実家に帰ったような気分になって、少し懐かしく温かい気持ちになった。


本当にお世話になったので、感謝の気持ちを拙い英語とスペイン語で手紙に書き、母親が日本から送ってくれた、良い匂いのする文香というものと一緒に封筒に入れて、ベッド横のテーブルに置いて帰った。

後日ノラットからメールが届き、「亮太の手紙を見てお母さんが大泣きしたよ」と言っていた。

たとえ、嘘だとしても、そんなノラットの優しさが嬉しい。

思い出して今涙こぼれる。



あまりにも色々なものに出会ったので、今でも夢見心地で、目の前のことに集中できない。

一通り文章にして吐き出してしまうことで、自分の中を整理する。そんなツモリで書いている。


まだ続きがある筈だけれど、感極まったので、 

少しトイレに行きたいので


また今度


続く



















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